小学生のとき、友だちが始めたという理由で水泳に通い始めました。その子は運動神経がよく、どんどん級が上がっていき、私は置いていけぼりに。そんなに楽しくもないし、自分は落ちこぼれのようにも感じたし、はじめて間もない時期に親に「やめたい」って言ったんです。
でも、父親は『石の上にも三年』って言って、辞めさせてくれなかった。
スポンサーリンク
三年間水泳を習っていて得たもの
理由は覚えていませんが、結局水泳は辞めました。バタフライまで一通り泳げるようにはなりましたが、披露する機会もなければ、あったとしてもしょぼいバタフライしかできる自信はありません。いや、そもそもできないかも。
だから、水泳のスキルとして残っているものはほとんどない。
じゃあ何を得たかって聞かれても、正直なにもないと思う。
得るものがなければ無駄な時間なのか?
確かに無駄とも言えるのかもしれない。でも、水泳を辞めていたら他に違うことができたのかって話で。たぶんできていなかったと思うんですよね、やめていたとしても。
確かに積極的に得るものはありませんでした。でもイヤイヤながら水泳に通うという経験はしていて。もうずいぶん前の話だから定かではないけど、水泳に行きたくなかった一番の理由は自分が劣等生だったから。できない自分から逃げたかったんだと思うんです。
でもその時は逃げさせてもらえなかった。
イヤイヤではあったけど、水泳を続けて、辞めた時は一緒に始めた子のことは考えてなかったと思うんですよね。たぶんもう比べてなかった。
三年続けてようやく、一人の子と比べる必要がないって気付けたんですかね。
人は同じことを繰り返す
人は同じことを繰り返す。なぜかと言うと、
原因が自分の中にあるからです。
小学生の私は、水泳自体が嫌いだったんじゃない。人と比べて、劣っている自分が受け入れられなかっただけ。受け入れられない自分を見なきゃいけない水泳の時間が嫌いだった。
「人と比べること」「劣っている自分を受け入れられないこと」これは自分の考え方、捉え方に問題があって。だから一度逃げたとしても、同じような状況になれば、同じことが起きていた。
だから水泳をやめていたとしても、次に始める習い事で同じように「やめたい」って思っていたと思う。
これは仕事でも言えること。
スポンサーリンク
辛いなら逃げればいい?
仕事が辛いって言っている人への、私からのアドバイスはいつも「辞めていいんだよ」。
だって本当に辛そうだから。
仕事はたくさんある。特に若い人の仕事はいくらでも選択肢がある。だから環境が悪いなら変えればいい。不要な理不尽が多いなら、そこから抜け出せばいい。
辛くて、辛くて、それで病気になってしまったら元も子もありません。だから、「仕事に行きたくない」って思ったとき、気づいたら涙が止まらないとき、そんなとき『石の上にも三年』はどうしようもなく間違っている。
すぐにその石から降りた方がいい。
辛さの理由
けどその“辛さ”の理由はその人の内にある。上司のせいでも、先輩のせいでも、同僚のせいでも、お客さんのせいでもない。
だから一回逃げても、その人自身が変わらなければ、同じ辛さはまたやってくる。
それは他のこと一緒。退屈さや、虚しさ、なんでも同じ。
そういう意味で『石の上にも三年』は正しい。
今できなくてもいい
人生は長いから、今難しければまた何年後かにトライすればいい。
でも知らなきゃいけない、
“原因は自分の中にある”んだってことを。環境のせいじゃない。
『石の上にも三年』は、半分正しくて、半分間違っている。
それは逃げてもいいけど、原因は自分にあるんだってこと。